住んでいるところや街を最初に意識したのは、高校生の頃。
クラスメートの住所が、六本木や青山、麹町とか、高輪や、白金とか‥地名だけは誰でも知っている都心部の住所の人が数人いた。
勿論、私はそんなハイソな街とは無縁の下町育ち。
当時は学校群制度なるものがあり、受験出来る校区も決まっており港区や千代田区と一緒だったので、都心のクラスメートが出来たのだった。
でも、都心へは社会科見学で行ったぐらいだったし、あまり関心がなかったので、六本木や青山のような有名な商業地にも普通に人が住んでいるんだ‥ぐらいにしか思わないのんびりした高校生だった。
短大に入ると、全国区になった。
東京、埼玉、千葉が私の周りには多かったが、島根とか、香川と言われると、地図上ではこの辺ぐらいかな?程度にしか分からなかった(笑)。
それより同い年で一人暮らししていることを、単純に凄いと思っていた。
どちらかというと、都内の地名より、それまで旅行でも行ったことがなかった地方の地名の方が、興味シンシンだった。
そのせいか、転勤であちこちに行く可能性があるのは、ストレスというより、好奇心の方がまさっていたような気がする。
私は(下町だけど)東京から一歩も出たことが無かったが、結婚を機に東京から離れることになった。
新婚さんの時は、札幌市のはずれのスキー場のふもとの街。
社宅は、エレベーターの無い、古いタイプの県営住宅といった感じだった。
でも、北海道の人より内地(本州)の人の方が多い社宅なので、かつては、年末年始の帰省で水道管を破裂させたりというトラブルが結構あったそうで、それを防止する意味もあり、冬は明け方からボイラーを焚いてくれて全館暖房状態で、短パン半袖で過ごせるほど快適な環境で、吹雪を眺めたりしていた。
やっぱり、北海道ブランドというのか、水道水ですら美味しいと思ったし、早朝の雪かき当番ですら、パウダースノーの雪かきは苦にならなかった。
札幌で長男が誕生し、妊婦さんだった期間や赤ちゃん連れでは、行動範囲は、社宅のあるスキー場のふもとの街が殆ど。
買い物に行く小さなスーパーの店員と挨拶を交わしたり、社宅の人間関係も良好で、嫌な思い出が一つもない。
その次は、現在住んでいる関東のトカイナカ。(都会の便利さもある緑の多い住環境の街と、言ったらカッコつけすぎかな。)
この地で次男が誕生した。
夫の会社は、もともと転勤の多い会社なのだけど、この地で建売住宅を購入した。
この地が特に好きという訳ではなく、都心部に通うには交通の便も悪くないよね、という感じ。
実はちょっと訳ありで、次男に耳の障害があることが分かり、療育のレベルを考えると、何処でもいいとは思えなくなっていた。
だから、ある程度の都市部の転勤なら、家族全員で引っ越して、不安のある土地だったら夫に単身赴任してもらうつもりだった。
双方の実家に転がり込むには、スペース的にお互いがストレスになりそうだし、かと言って夫が単身赴任したらこちらでは自分で住むところを確保しなくてはならない。
それなら買ってしまおうという勢いで決めた家。
勿論、買う以上は、その頃にあった週刊の住宅情報誌をチェックして、巻末のちっさな字の家にまつわる知識を頑張って読んで、あちこち見学に行った。
そして、市営プールや大きな公園にも近くて、駅からもそこそこ近いこの家に決めた。
一応、最寄り駅から徒歩8分なのだけど、途中にやる気の無いサツマイモ畑があり、街灯の間隔も広いので夜になると真っ暗。
幹線道路から離れているので、テレビを消すと、聞こえるのは虫の音ぐらい。
夫は、子供が男の子だからここでもいいけど、女の子だったら心配と、何度も言っていた。
息子達が幼い時は、カブト虫やザリガニ、おたまじゃくしがいるポイントも見つけ、子育てするにはとても良い環境だった。
でも、ある時期は、何でこんな所に家を買ってしまったのだろうと思っていた。
長男がちょっと目立つタイプの子供で、子供同士のトラブルから、所謂、ママ友関係が険悪になることが幾度かあった。
心の中では、ママ友と言ったって別に友達じゃないし‥と、思っているのだけど、無視や嫌味攻撃をされると、感情は別物。
それが、何度かあると、こんな嫌な地域を何で選んだんだろうという気持ちになっていった。
夫は、会社に子供の事情を伝え、転居を伴わない異動で配慮してもらっていたが、息子達が中学3年と、2年になる時、大阪へ転勤の内示がおりた。
親子が家族として一緒に暮らしている期間って、長い人生のスパンでみると、意外と短い。
だから、単身赴任は勿体無い。
でも、高校受験を控える学年での転校は‥。
夫と私は相当悩んだが、意外にも息子達は、大阪ならいいよ、だった。
そして大阪へ。
今度の住まいは、大阪市内のマンション。
地下鉄の駅から徒歩4分。時刻表を確認せずに電車に乗れると無邪気に喜び、
自転車で、なんばや大阪城にも行くことが出来る。
銀タコ以外のたこ焼き屋さんが沢山あって安くて、美味しくて、周りは、吉本のような関西弁‥。
大阪の人から見たら当たり前やろ!ということが新鮮で面白かった。
ここで、出会ったママ友も、よそ者を快く迎え入れてくれるような懐の広さを感じる人達ばかりで、やはり嫌な思い出は無い。
長男だけは、ちょっと苦労していた。
住まいを決める時、荒れていない中学の校区という条件しかつけていなかったのに。
彼が転校した中学は、その学年だけ前代未聞の荒れ方で、早く卒業してくれるのを待っているような状態だった。(他の学年は本当にまともだった。)
中3にしてクラスの半分近くが金髪で、ジャニーズJr.系の髪型だったのだ。(笑)
彼にとっては試練の1年間だったが、『真の底辺を見た気がする。』と、今笑っていられるのだから、よかったと思う。
長男が無事に高校入試を終え、制服の採寸に行った3月のある日のこと、とんでもないことが起こった。
なんと、関東に異動。地元に戻れる異動で、本来はラッキーではあったのだけど。
大阪が面白くて、大好きになったのに引っ越すことになってしまった。
いまだに1年で異動になったことが不思議でならないのだけど、今にして思うと夫にとっては結果オーライだった。
と、言うのも、急遽次男の病院の付き添いに行くことになり、そこで偶然、大きな病を発見して貰い、次に住んだ街は夫にとっては闘病の記憶しかない街になってしまった。
もし異動が無くて、そのまま大阪で暮らしていたら、当時の夫は激務だったし、少し腫れているだけで痛くも痒くも無かったら、病院へ行くこともなく、気がつくと手の施しようがない状態になっていたと思う。
でも、勿論、転勤の内示が降りたのが3月なので、長男の高校入試は終わっているし、自宅は賃貸に出しているし、もうパニック状態だった。
結局、長男は、2次募集で運良くレベルを落とさずに高校が決まり、自宅の賃貸契約期間満了まで隣町に家を借りることにした。
自宅の隣町とはいえ、町内会のルールは全く違うし、お隣さんがちょっとアレな家だったので、印象は良くない。
お隣さんは、農家で、ハウスメーカーのモデルハウスのような豪邸。
多分、その豪邸の北側の私達が借りていた建売住宅は、もと、農地だったのでは‥という感じ。
ある日、お隣さんの家に羽が生えたような装飾のデコトラ風の軽自動車が夜中に爆音を響かせやって来るようになった。
ご近所さん、誰も文句は言わなかったけれど、手に負えないこの家の息子ができちゃった婚をして、ヤンママと共に転がり込んできたという雰囲気。
この息子、全方位敵対モードというのか、目があうと、訳もなく睨みつけてくるし、軽自動車の改造マフラー音はうるさいし、存在そのものがストレスとなっていった。
しかも、夫の大病が見つかり、生活は闘病中心となり、この家、この街に良い思い出が一つも無い。
夫の治療が無事に終わり、自宅の賃貸契約が終了すると、自宅をリフォームしてから、現在の家に戻った。
大阪へ行く前、嫌いになりそうな自宅がある街だったのだけど。
やっぱり、ほっとした。
隣町で暮らした1年半は、夫の闘病もあり、どよんとした空気を感じていて、その地から離れて戻ってきた自宅は、明るく輝いて見えた。
よく考えると、長男のクラスメートの一部の母親と険悪になり、私にとっては理不尽に攻撃されたと感じて、地域そのものを嫌いになりかけていた。
本当は、ご近所さんもお隣さんもいい人達ばかりなのに。
ほんの数年自宅を離れたおかげで、今住んでいる家と街が好きになった。
結局、住みたい街というのは、人間関係と、毎日穏やかに暮らしていける環境で決まってくると感じている。
住みたかった街、私にとっては、『もう少し』住みたかった街になるけれど、札幌と大阪。
結構、住めば都のノー天気体質なのかもしれない。(笑)
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