はじめの1歩

子育て終了、時間と心の余裕が出来たのでイロイロ手を出してみます。

人生最大のピンチだった‥と思う話。

今週のお題「人生最大のピンチ」

 

過去にも一部をブログで書いたことがあるけれど、今思い返すと人生最大のピンチだったと思ったのは、息子達の転校やらその後の夫の大病のあの数年間。

もうあれから16年も経ち、困った時だけの神頼みなのに、助けてくれた神様、ありがとうございます‥としみじみ思う。

 

16年前、大阪で暮らすことになった。

息子達は当時中2と中3。

久しぶりの転居を伴う転勤。

埼玉から大阪への異動で、息子達の学校のことを思うとさんざん迷ったけれど、人生の長いスパンで親子が家族として暮らす期間って意外と短いと思っていたから単身赴任は勿体ないし、息子達も大阪なら‥という雰囲気だったし、どこぞの立派な大学の付属校に入っている訳ではないし‥と、家族帯同で、大阪へ引っ越しをした。

大阪での生活は、それぞれが充実していたように思う。

ただ長男だけは、ちょっと大変そうだった。

転校先の中学校が、彼の学年だけが酷い荒れ方をしていて、先生方も手を焼いていた。

関東からの転校生で、目立つタイプの長男にとっては、更に大変だったと思うが、スポーツではチヤホヤされていたようで、なんとか乗り切って迎えた中学校の卒業式の1週間前のこと。

4月から入学する高校の制服採寸や、説明会から帰宅すると、『本社に転勤内示が降りた。』と、夫から電話があった。



何で、1年で異動?

夫の異動のサイクルは今まで4年から6年だったので、息子達は大阪で高校生になって東京の大学を受験すればいい‥と、大雑把な見通しを立てての転居だったのに‥。

自宅は賃貸に出していたし、長男は高校入試が終わった途端に埼玉へお引越しの憂き目。

タイミングが悪く、高校入試は埼玉は早く大阪の方が遅かったので、埼玉の高校の入試は全て終わり、2次募集の受験も締め切った後だった。

経済的には最悪な逆単身赴任も覚悟したが、仕事関係のツテで、某私学の2次募集を受験出来ることになり、何とか合格することが出来て、ホッと一安心。

自宅は賃貸に出して契約期間が残っていたので、自分で家探しをするハメになったり‥と、一気に大変なことが押し寄せてきた感じだった。

もし、長男が埼玉の高校へ決めることが出来なかったら‥経済的にはかなりのピンチになっていたし、学校のレベルを無視して何処でもいいと押し込んでいたら、プライドが高くてええカッコしいのくせに、環境に染まりやすい長男にとっては、一生に禍根を残すような真のピンチだったなあ‥と、心から思っていた。

 

そう、何で1年で、異動に?

直属の上司は、年齢的にも、自宅がある地に戻れる異動なんだからラッキーだというスタンスだったけれど、夫は思い当たる節があったという。

当時、仕事の担当は大阪、京都地区で、やっと顧客に馴染んでもらいこれから‥という時に、四国の一部エリア担当を打診されて、断ったとのこと。

支店の統廃合で、四国エリアも加わって数年経っていたが、上手くいっていなかったらしい。

そこで、白羽の矢が立ったようだが、本人はもっともらしい理由を付けて拒否。

でも、最大の理由は、このエリアの担当になったら、毎週飛行機に乗って高松入りして平日はホテル暮らしをしなくてはならなかったから。

しかも夫は、高所恐怖症だし飛行機が大の苦手。

歴代の担当者達は、プロペラ機で揺れるし、酸素マスクが降ってきた経験があるとかなんとか‥武勇伝?を語る人も居たし‥。

とにかく毎週飛行機で往復するストレスに耐えられないというのが本音だった。

でも、拒否が通る甘い会社ではないので、異動になったと想像していた。

大阪、京都担当は、歴史、神社仏閣が大好きな夫にとっては、大変だったけれど楽しい仕事でもあったので、後ろ髪を引かれる思いで、本社に異動した。

 

でも、最大のピンチはこれからだった。

夫は当時、仕事の忙しさと不摂生が祟って、自分史上1番太っていた。若い時と比べて15kgの体重増で、顔も丸くなっていた。

そのせいか、本人も一緒にいる家族も全く気がつかなかったが、実は首のリンパ節が腫れていて、怖い病気が潜んでいた。

すぐ近くにあるピンチに全く気がついていなかったが、偶然がピンチに気付かせてくれた。

引っ越しやら、転校などの手続きで、バタバタしていたある土曜日。

次男が耳鼻科の診療を受ける必要に迫られ、転居先の土地勘がなかったので、駅前の総合病院へ連れて行こうと思っていた。

そこへ、市役所から連絡で次男の転校の手続きに漏れがあるので、出来れば今日来て欲しいとのこと。そこで、次男の耳鼻科は急遽夫が付き添うことになった。

次男の診察は、あっという間にに終わったものの、お医者さんは、『お父さんは、付き添いだけですか?』

その時点で嫌な予感はあったらしい‥。

耳下腺あたりが腫れているような気がしていたし、せっかく病院に来たからついでに一緒に診てもらおうと思いたち、診察を申し込んでいた。

程なく、夫の順番となり、ものすごく混んでいた総合病院なのに矢継ぎ早に検査入院の予約が入り、病名はその時点では分からなかったけれど、恐怖の闘病生活の幕開けとなってしまった。



夫が自覚していた耳下腺の腫れ、痛くも痒くもなく、でもなんか腫れているよね‥というその腫れは、喉に出来た怖いデキモノが首のリンパ節に転移していたものだった。

リンパ節に転移しているので、ステージ4。

しかもお医者さん、『あとひと月受診が遅れていたら、ホスピスしか紹介できませんでした。』なんて言ってくださる。

もしも、あのまま、大阪に居たら‥。

担当替えがなくても、四国の担当になっていても、痛くも痒くもない耳下腺のちょっとした腫れの存在なんてすぐに忘れて、充実していたかもしれないけれど忙しくて不摂生な毎日を送っていたと思うと、怖すぎる。

そのあとは、放射線治療、外科的な治療‥と、多分治療のフルコースを経て健康を取り戻した。

治療そのものは、やはり過酷で、本人は今となってはあまり記憶がないほど辛いものだったらしい。

勿論、家族もしんどかった。

『命だけは取らないでください』と、神頼みの毎日だった。

偶然が重なって、病院へ導いてもらって、夫にとって人生最大のピンチから救ってもらったし、私にとっても、自覚していないかもしれないけれど息子達にとっても人生最大のピンチだった思う。

なので、あんなにすごい最大級のピンチを味わったので、もう酷いピンチはやって来ない‥と、ノー天気に思うことにしている。